「こゝろ」を読んでみた

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人間のエゴ。利己心。人間の本質は実に醜悪である。人は人を欺き、欺かれ生きている。それに気づいた時、人は厭世的な考えに陥る。そして、人を信じることができなくなり猜疑心に苛まれる。こゝろでは、その人間の「エゴ」を非常に上手く表現できている作品でした。

ざっくりとした要約。
主人公である「私」は、海水浴に来ていた男性と会う。後に「先生」と呼ばれるこの男性は、「私」にとって信頼できる存在となり、先生宅に出入りするようになる。関係を深めるにつれて、「先生」は自身にある隠された秘密があることを「私」に告げる。「私」はその秘密についての開示を「先生」に求めるが頑なにそれを拒まれる。その秘密について煩いながら日々を過ごしていた「私」に母から電報が届く。内容は父が卒倒したという内容。「私」は帰郷し、父に寄り添い看病をする日々を過ごす。そんなある日、「先生」から手紙が届く。手紙の内容は、あの秘密をこの手紙に記し、「私」にだけ開示するということ。そしてそれは、秘密の開示と同時に「先生」の遺書でもあった。遺書の内容は先生の遍歴から自身、人間に対する考え方が書かれてあった。

元来、先生は厭世的で猜疑心の塊のような人間では無かった。しかし、先生は変わってしまう。なぜ先生は変わってしまったのか。それは、先生の過去の遍歴が大きく影響している。先生の両親はどちらも先生が中学生の時に病死。叔父が先生を預かる。それまで別段何も困ることはなく、日々を過ごしてきた「先生」だが、叔父に引き取られてから日常に支障をきたし始める。叔父は自分の利益、利己心を優先し「先生」を利用していた。それに気づいた先生は、人を信用できなくなる。人が善意で行った行為まで疑いを持ち、猜疑心の塊となる。叔父に嫌気がさした「先生」は、叔父家族との同居をやめ、閑散としたある軍人の未亡人(奥さん)の宅に身を寄せる。新しい生活を手に入れた「私」だが、奥さんと娘との生活を楽しもうとする一方、猜疑心に懊悩されながら日々を送る。そんなある日「先生」は様々な居座古座で衰弱していた友人のKを奥さんの許諾を得て宅に引き込む。奥さん宅で生活をはじめた厳格なKに心境の変化が現れる。その誘因は奥さんの娘さんの存在。Kは、娘に恋をした。それを知った「先生」は焦る。何故ならば、「先生」も娘に恋をしていたから。ある日、Kは「先生」に娘さんへの恋情について相談する。それを聞いた「先生」はKに対し恋路を妨げる発言をする。理由は、先生の娘を奪われたくない利己心から。その利己心が仇となり、ついにはKを自殺に追い詰める。Kの自殺後、「先生」は娘と結婚し娘は先生の妻君となる。妻君となった娘は時折、Kの話を持ち出してくる。その度、いや、何をするときにでも「先生」の中にはKの存在があった。相手の気持を無碍にし自殺した友人に対し自分を責める人生が続く。

そして先生は決意する。後の数十年もその気持に苦しむか、刹那の痛みに苦しむか。
先生の答えは後者。先生は死を選択する。

人はどうしても自身を優先する生き物です。なので「こゝろ」の様にその利己心が行き過ぎて人を傷つけたり時には殺めたりすることもあるということです。結果、罰として自身に振りかかる。因果応報とは正にこのことでしょうか。そもそも人を疑う様になる要因とは何でしょうか。疑うということは、その人が偽であるということだと思います。つまり、その人自身がその人自身でない姿を見せるために猜疑心が生まれると考えます。私たちにはその人が今、偽であるのか真であるのか判別できません。その結果、誰に対しても猜疑心が生まれます。そうなると、人を信じることができなくなり、厭世的な考えに支配されます。ただ、この世の中は臨機応変に対応しないと悲しいかな生きていけないこともまた事実です。確かに人を欺き生きる生物かもしれません。そしてその自分に対し嫌悪し、どれが本当の自分か分からないことがあると思います。私自身そのような考えに陥ったことがあります。
その時に出会った書籍は平野啓一郎氏著の「「私とは何か」〜「個人」から「分人」へ〜」です。
この書籍に出会って考え方が変わりました。このあたりで悩んでいる方は是非一読をおすすめします。

参考文献

・こゝろ(夏目漱石 著)

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